あいさつ

今年もあいさつ、返事に力を入れています。1学期の反省の中に「あいさつについてどうだったか」という項目がありました。教師や友達、朝の会でのあいさつは指導が例年よりも行き届いているようです。しかし、来園者(初めて会うお客様)に対しての自分からの挨拶はまだまだのようです。私は毎学期の約束の中に挨拶と見知らぬ人についていかないことをセットにして話をしています。誰にでも挨拶をしましょう。でも誰にでもついて行ってはいけませんということです。それでは、あいさつはなぜするのでしょう?これは私の持論ですが、まず、初対面の方とのコミュニケーションのスタートです。そして第一印象としても相手に残ります。日本人は握手よりもあいさつや会釈を交わして、話がスタートします。挨拶はその人を知り、仲良くなる一番大事な行為なのです。これは社会に出てから必要なことかもしれません。まだ先のこと・・・と考えずに、幼児期から挨拶をする習慣があると、学校に行き始めてから、そして、社会に出てから困ることはないでしょう。光が丘幼稚園では、職員に対して必ず立ち止まって、相手の目を見て、礼をして、また相手の目を見るようにと徹底しています。忙しいから、用事があるからは理由になりません。挨拶はとても大事なものととらえています。今は職員が立ち止まって・・・となっていますが、職員がいい見本となり、子ども達、そして保護者の皆様が立ち止まって挨拶を交わせるようになることを夢見ています。

什の掟

・一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ

・二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ

・三、虚言をいふ事はなりませぬ

・四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ

・五、弱い者をいぢめてはなりませぬ

・六、戸外で物を食べてはなりませぬ

・七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ

ならぬことはならぬものです

 

 

会津藩の「什(じゅう)の掟」です。薩摩の郷中のように地域の子弟を教育するのが「什」で、その掟がこの「什(じゅう)の掟」です。現代には似つかわしくない表現も含まれていますが、最後の「ならぬことはならぬものです」という言葉は有名です。「だめなものはだめ」一度は聞いたことがあると思います。が、今ではほぼ死語ですね。

私事ですが、小学校3・4年生の時に「ファミコン」が大流行しました。周りの友達はみんな持っているので恐る恐る父に「ファミコンがほしい」と伝えましたが、父は「ダメ。外で遊びなさい」の一言。その時は父の後ろ姿しか覚えていません。父には理由を言ってもダダをこねてもダメでした。まさに「だめなものはだめ」。私はそれでも・・・とは言いませんでした。父は何を言ってもダメだというのが子どもながらに分かっていたのでしょう。そういう父でした。

以前、「なぜ人を殺してはいけないのか」という内容のテレビ番組を見ました。少し大げさな表現ですが、「人の命がなくなる」のになぜ?は必要でしょうか?ダメなものはダメでしょう!近所のカミナリおやじがいない、「説明してくれないと納得しない」といったわがまま、自分さえよければいいという風潮がそうさせているのでしょうか?理由や理屈、十分な説明がないとわからない、考えなくても、理由がなくても「だめなものはだめ」ということは結構たくさんあるものです。皆さんの家族の中に「だめなものはだめ」とお子さんに強く言える人はいますか?いらっしゃったら子どもは幸せだと私は思ってしまいます・・・たまにでもいいので「ぶれない」大人もかっこいいのでは?

自分言葉

待つ